『サピエンス全史』~想像上の秩序は共同主観的~
こんにちは、ゆうじんです。
サピエンス全史読み進めています。
5月も後半になってきましたが…まだ読み終えることができずです。
1カ月で2冊のインプット&アウトプットがついに5月で途切れるか…
でも、結構難しいんです…サピエンス全史。
まだ理解したとも言い難いですけど、理解するまでに何度か書いてある表現を反芻するような感覚が必要です。
僕ぐらいの理解力では時間がかかる本でした。
今手を出すべき本だったのか…もうちょい理解力をつけてから挑む本だったかもしれませんね。
でも理解力がつくまでなんて曖昧な理由で読んでみようかなぁって思うような本を避けることがいいとも思えませんしね…
これからもどんどんこれは面白そうだなぁって本を読んでいきたいと思います。
そして、今回は
~想像上の秩序は共同主観的~ってことを書かせていただきます。
目次
1.想像上の秩序
おさらいですが、想像上の秩序ってのは
サピエンスが頭の中で決めたルールや決まりごとのことを指している感じですね。
もっと簡単にすると、法とか憲法とかでしょうかね。
それらはあくまで想像上であって、DNAに刻まれている生物学的な行動ではないんですよね。
だから想像上の秩序ってやつなんです。
2.想像上の秩序から脱するには
生物学的ではない行動をなぜ、サピエンスは守ろうとするのか?
その想像上の秩序から脱するにはどうしたらいいのか?
答えは脱することができないみたいです。
想像上の秩序を変えるためには、何百万という見ず知らずの人を説得し、彼らに協力してもらわなければならない。なぜなら想像上の秩序は、私自身の想像の中に存在する主観的秩序ではなく、厖大な数の人々が共有する想像の中に存在する、共同主観的秩序だからだ。
引用:サピエンス全史(上)
3.共同主観的とは?
共同主観的ってなんぞや?って思う人もいたでしょうね。僕もそうです。
それを理解するために
客観的、主観的、共同主観的を理解する必要があるみたいです。
客観的は人間の意識や信念とは別個の存在があること
主観的は単一の個人の意識や信念に依存して存在があること
そして、共同主観的は多くの個人の主観的意識を結ぶコミュニケーション・ネットワークの中に存在する。
そのため共同主観的は一個人が考え方を変えても共同主観的は変わることがないみたいです。
ですが、ネットワークの大半が考えを変えたり、亡くなられたりすれば共同主観的な考えは変わることがあるみたいです。
例えば通貨でしょうかね。
みんなが通過を価値のあるものと認識してなければ何の役にも立ちませんからね。
ここの”みんな”ってのが大事なんでしょうね。まさに共同主観的ってやつでしょうね。
4.共同主観的な部分は変わるもののなくならない
この共同主観的な考えはそれを信じている多くの人たちがその考えを変えなければ変わらないとのことです。
でも、その変わることがあるのだろうか…
答えはとんでもなく難しいってことでしょうね。
今更ドル紙幣を何の価値もないものと認識するにはなかなか難しいでしょうし、
アメリカ合衆国を国と認めないなんて何十億の方が同じ方向を向かないとなりえない。
仮にアメリカ合衆国を国と認めない方法があるとするならば、アメリカ合衆国以上の強い共同主観的な考えを何十億の人たちに持ってもらう以外ないみたいです。
ってことは共同主観的な考えからはどうもあらがえないところまで来ている感じですね。
想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走りこんでいるわけだ。
引用:サピエンス全史(上)
5.まとめ
いかがでしたか?
今回は想像上の秩序は共同主観的ってことを書かせていただきました。
みんなが思っていることをみんなで共有するってことでしょうかね。
それができないと想像上の秩序は保てないってことでしょうからね。
しかも共同主観的な輪?からは逃れることができないってことですからね。
サピエンスって種は本当にすごいですね。
結束力がすごいのか…同じ考えの同種を集めることで種を生存してきたわけでしょうからね。